1. 撤退からのスタート
岩田
今日は『Nintendo×JOYSOUND Wii カラオケ U』
についてお訊きします。
『Wii カラオケ U』が Wii U本体すべてに
プリインストール(※1)して発売されるという、
ちょっとめずらしいことが起きましたので、
これが実現されるためにどんなことがあったのか、
お話をお訊きしたいと思います。
みなさん、よろしくお願いします。
一同
よろしくお願いします。
岩田
では、それぞれ自己紹介と、
何を担当されたのかをお願いします。
吉満
株式会社トーセ(※2)の吉満です。
ソフトの開発を担当しました。
Wii Uが世の中で発表になったころから、
このソフトにかかわっています。
中谷
株式会社エクシング(※3)の中谷です。
わたしと伊神は20年前に
ブラザー工業(※4)におりまして、
通信カラオケのマーケティングを担当していました。
岩田
通信カラオケが世の中に生まれたのは、
エクシングさんのおふたりの貢献が非常に大きかったそうですね。
中谷
あ、はい(笑)。
その話も後ほどさせていただきます。
今回の『Wii カラオケ U』では、
エクシング側の業務全般を担当していました。
トーセさんとは以前から
『カラオケJOYSOUND Wii』(※5)で、
共同運営をしておりましたが、
Wii Uという新しいハード環境で
「ぜひ家庭用の最新カラオケをつくりたい」
という強い気持ちがありました。
伊神
株式会社エクシングの伊神です。
わたしも通信カラオケの立ち上がりから
ずっとかかわってきました。
今回のプロジェクトでは、社内的な調整と、
カラオケサービスのコンテンツ、
企画や機能面などを担当しました。
岩田
「カラオケ」という
任天堂が明るくない分野について、
案内役となっていただいたそうですね。
ありがとうございました。
そして、この記事を読んでいる方は、
「山上さん・服部さんがなぜここに座っているの?」
と思うかもしれません。
山上さん、どんなことをしていたんですか?
山上
今回も任天堂側のプロデューサーと、
社外で必要な関係者のみなさまとの交渉ごとを
一手に引き受けて、動き回りました。
岩田
山上さんは『JUST DANCE Wii』(※6)を担当して以来、
音楽版権ものの交渉の難しさに目覚めて、
大変であればあるほど、
燃えるようになりましたよね(笑)。
山上
はい(笑)。
権利のあるものを使わせていただくのは、
とても難しいんです。
岩田
「難しいし、大変です!」「でも、面白いです!」
と、うれしそうに駆け回っている山上さんを
あきれるような目で見ていた服部さん、お願いします(笑)。
服部
はい(笑)。任天堂の服部です。
いつもどおり、任天堂側のディレクターとして、
本プロジェクトにかかわっていました。
山上さんが社外の調整を、
わたしは社内の調整を行っていました。
よろしくお願いします。
岩田
では最初、せっかくなので、
「通信カラオケはどうやって生まれたのか?」
ということについて、
中谷さんからお話しいただけますか?
中谷
はい。少し、前振りが
長くなるかもしれませんけど・・・。
85年のNTT民営化(※7)にともない、
「ブラザーグループで新しいサービスを提案しよう」
ということで、まずは
パソコンソフトの販売をはじめました。
岩田
85年といえば、
ちょうど『スーパーマリオ』が出た年ですね。
中谷
はい。ただパソコン用ソフトは
箱が大きく、棚を占めるうえ、
3~4か月という早いサイクルで
商品が入れ替わるために、
経営が難しいことを販売現場で体感したんです。
そこで、「通信で最新ソフトのデータを送って、
中身を店頭で書き換えてはどうか?」と発案し、
TAKERU(※8)という、パソコンソフトの
自動販売機をつくりました。
岩田
いま、メジャーになりつつあるデジタル流通システムを、
「25年も前に考えていた」ということですね。
でも、いまと比べると当時のモデムの速度は
とてつもなく遅いですよね。
中谷
おっしゃるとおりです。
当時はFAXモデム(※9)を扱っていて、
1秒間に2,400bit/s程度でした。
伊神
しかも当時は、モデム1台、
数万円という高い値段でした。
中谷
それとデータを書き込むハードディスクが
当然、必要になるんですが、
これも10メガバイトで数十万円ぐらいでした。
岩田
10メガバイトですか・・・!
10ギガバイトじゃないですからねぇ。
中谷
じつは当時、任天堂さんは
ディスクシステム(※10)を開発されていて、
ブラザーグループとして、ファミコンソフトの
流通を担当させてもらえないか、
一時、業務提携のお話し合いもあったんです。
本社におうかがいしたこともあります。
岩田
はい、これは時効だから言えることなんでしょうが、
確かに、そんなこともあったそうですね。
当時、任天堂はディスクライター(※11)で
小売店さんの店頭でディスクの書き換えサービスをしていましたし、
通信サービスにもいち早く注目していて、
ディスクファックス(※12)というものを
小売店さんの店頭に置かせてもらっていました。
わたしも、ディスクファックスの
担当ソフトをつくっていたんです。
『ゴルフJAPANコース』(※13)と
『ゴルフUSコース』(※14)の大会で、
全国のプレイヤーのみなさんの成績を集めて
成績上位者に特別なディスクをプレゼントしたんですが、
100人分のディスクを手作業でつくりました。
もし持っている方がいたら・・・
あれ、わたしがつくったんです(笑)。
中谷
そうなんですね(笑)。
岩田
はい、当時のわたしたちは、きっと仕事で
けっこう近いことをしていたんですよ。
まあ、それはともかく。
任天堂もその時期から通信に興味がありましたが、
時代が早すぎて、通信のコストも高く、
広く普及させることはできなかったんです。
中谷
結果的に提携はかないませんでした。
結局、端末コストや
ネットワークコストが高額だったことや、
パソコンやMSX(※15)用ソフト市場が
ファミコンなどの専用ゲームソフト市場に比べて
市場規模が小さかったことで、
TAKERUの事業は撤退せざるを得なくなりました。
岩田
ただ、そこで一度、撤退していなかったら、
通信カラオケは世の中に生まれていないんですよね。
中谷
そうです。ある意味、
それを押していただいたのが、
任天堂さんだったということになります。
・・・結果的に、ですけど(笑)。
岩田
はい(笑)。