社長が訊く
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社長が訊く『ペーパーマリオ スーパーシール』

社長が訊く『ペーパーマリオ スーパーシール』

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目次

1. 「社長に言いまくる」

岩田

今日は、ニンテンドー3DSソフト
『ペーパーマリオ スーパーシール』の
関係者のみなさんに集まっていただきました。
まずはみなさんから自己紹介と、
『マリオ』との最初の出会いや関わりについて、
遊ぶ側とつくる側、それぞれお訊きしたいと思います。
では、工藤さんからどうぞ。

工藤

株式会社バンプール(※1)の工藤と申します。
今回はディレクションとシナリオを担当しました。
僕と『マリオ』の最初の関わりは
スーパーファミコンの『マリオRPG』(※2)のときで、
当時スクウェア(現スクウェア・エニックス)さんの
スタッフとして参加していました。

※1
株式会社バンプール=東京都渋谷区に本社を置く開発会社。任天堂関連では『もぎたてチンクルのばら色ルッピーランド』などチンクル関連タイトルを手掛けている。
※2
『マリオRPG』=『スーパーマリオRPG』。1996年3月に、任天堂からスーパーファミコン用ソフトとして発売されたアクションRPG。スクウェア(現スクウェア・エニックス)とのコラボレーション作品。

岩田

「スクウェアさんのRPGのノウハウで
 任天堂と一緒に『マリオ』をつくりましょう」と
はじまったプロジェクトでしたね。
遊ぶ側としての出会いは何でしたか?

工藤

遊ぶ側としては、えーと・・・。

田邊

あんまり任天堂のゲームは
遊んでへんかったんちゃうの?

工藤

いやいや!
ファミコンの『マリオブラザーズ』(※3)
超やりましたよ。
かなり好きでした(笑)。

※3
『マリオブラザーズ』=アーケード版・ファミコン版、ともに任天堂から1983年に発売されたアクションゲーム。

岩田

はい(笑)。

中嶋

インテリジェントシステムズ(※4)の中嶋です。
『ペーパーマリオ』シリーズに、弊社イズ側の
プロジェクトマネジメントとして関わっています。
遊ぶ側としては業務用の『マリオブラザーズ』の
筐体(きょうたい)がアルバイト先に置いてあったので、
それをずーっと、やっていました。
つくる側としてはファミコン版を
ちょっとお手伝いさせてもらったことが、
いちばん最初ですね。

※4
インテリジェントシステムズ=株式会社インテリジェントシステムズ。『ファイアーエムブレム』シリーズや『ペーパーマリオ』シリーズなどの任天堂ソフトや、歴代ハードの開発支援ツールの開発をしている会社。本社は京都。通称イズ。

岩田

お手伝いというのは、
学生アルバイト時代ですか?

中嶋

えーと、たしか入社してから、
ディスクシステム(※5)
『永谷園マリオ』(※6)というのが
あってですね・・・。

※5
ディスクシステム=1986年2月に発売されたファミコンの周辺機器。正式名称は「ファミリーコンピュータ ディスクシステム」。メディアに磁気ディスクを採用し、ソフトを安価で書き込むことができた。
※6
『永谷園マリオ』=『帰ってきたマリオブラザーズ』。1988年11月にディスクライター書き換え用ソフトとして発売。ゲーム内容は『マリオブラザーズ』と同じだがスポンサーである永谷園のCMがゲーム中に流れる。

岩田

ありましたね、『永谷園マリオ』。
通常の書き換えより100円安かったんですよね。

中嶋

つくる側で最初に関わったのがあのソフトでした。
それから『スーパーマリオ』(※7)が出たときは、
仕事と遊びの区別なく、ずっと遊んでいました。

※7
『スーパーマリオ』=『スーパーマリオブラザーズ』。1985年9月にファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。

岩田

中嶋さん、『スーパーマリオ』のロムができたときって、
しばらく会社全体の仕事が止まりませんでしたか?

中嶋

あっ、止まりましたね(笑)。
「これはデバッグだ」って言って、
みんなで1週間くらい、
ゲームをずっとしていた記憶があります。

工藤

えっ、そんなに!?

岩田

あの頃はおおらかな時代だったんですよ(笑)。
マスターロムが完成したら
そのロムが関係者に配られたんですね。
ハル研(※8)でも朝から晩まで
全員が『マリオ』を遊んで、
仕事がいっさい進まなかったですから。

※8
ハル研=株式会社ハル研究所。『星のカービィ』や『スマブラ』シリーズなどを手掛けてきたソフトメーカー。かつて岩田が社長を務めていた。

一同

(笑)

中嶋

そういう意味ではもう
かれこれ30年やっているので、長いですね。

岩田

はい(笑)。では碧山さん。

碧山

インテリジェントシステムズの碧山です。
イズ側のディレクターを担当しています。
遊ぶ側としてはファミコンの『マリオブラザーズ』を
対戦ルールでずっと友達と遊んでいました。
つくる側になったのは、僕がイズに入社したとき、
ちょうどN64(※9)の最初の頃に
『マリオストーリー』(※10)で関わったのが最初です。

※9
N64=NINTENDO64。1996年6月に任天堂より発売された家庭用ゲーム機。
※10
『マリオストーリー』=2000年8月に、NINTENDO64用ソフトとして発売されたアクションRPG。『ペーパーマリオ』シリーズとしての1作目にあたる。

岩田

あれも難産だったんですよねぇ。

碧山

思い出されてしまいましたか(笑)。

岩田

でも、ペラペラの2Dの表現は
あの『マリオストーリー』から生まれたんですよね。

碧山

はい。今回はそのとき以来、ひさしぶりの参加です。

井方

インテリジェントシステムズの井方です。
僕はマップのデザインを担当して、
ペーパークラフト(※11)的な世界観をとりまとめました。
遊ぶ側として最初に遊んだのは、
ファミコンの『マリオ3』(※12)ですが、
いちばん遊んだのはスーファミの『マリオカート』(※13)です。
小学生のときに友達と遊びまくりました。

※11
ペーパークラフト=紙を素材としてつくる模型。
※12
『マリオ3』=『スーパーマリオブラザーズ3』。1988年10月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。
※13
『マリオカート』=『スーパーマリオカート』。1992年8月に、スーパーファミコン用ソフトとして発売されたアクションレースゲーム。

中嶋

うわっ、小学生?
世代の差を感じるなあ(笑)。

一同

(笑)

井方

つくり手としては、今回はじめて
『マリオ』に関わることができました。

岩田

『マリオ』は遊ぶと楽しいけど、
つくるとなるとたいへんだったでしょう?

井方

はい(笑)。やっぱりやりがいがありました。

田邊

プロデューサーを務めました任天堂の田邊です。
マリオとの出会いは最初『ドンキーコング』(※14)
出ていたときから知ってはいますけど、
「いちばん遊んだ」という意味では
業務用の『マリオブラザーズ』ですかね。
つくる側としてはちょっとややこしいんですけど、
わたしは『夢工場 ドキドキパニック』(※15)
初ディレクションタイトルなんですね。
のちに『スーパーマリオUSA』(※16)になるという。

※14
『ドンキーコング』=1981年に業務用で登場したアクションゲーム。ファミコン版は1983年7月に本体と同時発売された。
※15
『夢工場 ドキドキパニック』=1987年7月にファミコンディスクシステム用ソフトとして、フジテレビジョンから発売されたアクションゲーム。
※16
『スーパーマリオUSA』=1992年9月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。アメリカで発売された『スーパーマリオ2』の日本版。

岩田

海外ではあれが
『スーパーマリオ』シリーズの2作目として
発売されていたんですよね。

田邊

最初から『マリオ』だったタイトルという意味でいえば、
『マリオ3』でマップのデザインをしたのが
はじめての関わりになります。

岩田

田邊さんは先ほど工藤さんが言っていた
『マリオRPG』のときに
任天堂側の窓口をされていたので、
おふたりはそこからのご縁でしたよね。

田邊

はい、そうです。

工藤

あの頃は僕もまだ
スクウェアに入社したばかりでした。

岩田

あれはどのくらいの期間つくっていたんですか?

工藤

研究を含めると、
2年近くかかっていると思います。

田邊

当時コラボもお互いはじめての試みでしたし、
けっこう時間がかかりました。

工藤

たいへんでしたね。

田邊

最初の打ち合わせのとき、スクウェアさんから
マリオがマントを着て、剣を持って
馬に乗ったイメージが提示されたんです。

工藤

最初はスクウェアらしい、
『FF』(※17)のような剣と魔法の世界観を
『マリオ』とどう組み合わせるか、
という提案をさせていただいたんです。

※17
『FF』=『ファイナルファンタジー』シリーズのこと。

田邊

それを見て宮本(茂)さんが開口一番、
「これはちがいます」と伝えた記憶があります。
「マリオは剣を持ちません、持つならハンマーです」
というところからはじまりました。

岩田

『マリオ』がRPGになったときに
「活かしたいこと」「ゆずれないこと」というのが
最初から宮本さんの頭の中にあったんでしょうね。

田邊

でも宮本さんが具体的な要望を伝えたのはこれだけで、
あとはスクウェアさんが理解されて、
よい具合に構築していただいた印象はあります。

岩田

工藤さんはどのあたりから入っていったんですか?

工藤

僕はゲーム内のイベントなどを担当していたんですけど、
担当したパートが任天堂さんに「おもしろい」と
言っていただけるようになって、
徐々に重要なパートも任されるようになった感じでした。

田邊

最後はもう、工藤さんと直接
やりとりするようになっていましたよね。
任天堂としてはそのときにすごく工藤さんに
がんばっていただいた記憶があったので、
そのあとN64で『マリオストーリー』をつくるとき、
オブザーバーをお願いしたんです。

工藤

別の会社に移ってからですけど、
月イチくらいでイズさんの現場に
うかがってました。

田邊

まあ、そのときもいろいろあって、たいへんでした。
今回もそのときに劣らずたいへんなことがたくさんあって、
そういう意味ではわたし的に
今日はもう「社長が訊く」じゃなくて
「社長に言いまくる!」なんですよ。

岩田

はい(笑)。
田邊さんが「社長に言いまくる」と宣言したので、
じゃあ今日はその路線でいきましょうか(笑)。

一同

(笑)