岩田
一方で、普通はこういう終わりの見えづらい大作をつくると、
チームの人たちがだんだん疲れてくるケースがあるんですが、
『GO VACATION』に関しては勢いが衰えることなく
夢中でつくられた感じがするんです。
そうでなければ、この物量は2年半で終わりませんし。
それができたのはどうしてだと思いますか?
小林
やっぱり、外部の制作会社のみなさんが関わったことが大きいですね。
社内メンバーだけでつくっていると、
じっくり環境を整えたり、検証してからスタートするので、
最初の絵が出てくるまでかなり時間がかかることが多いんです。
岩田
ラストスパートが得意な
『リッジレーサー』チームですもんね。
小林
はい(笑)。
でも今回、4社と一緒につくっているということもあり、
各社さん、ものすごい早さで試作を見せてくれたりして・・・。
岩田
ああ、見た目の変化がどんどん起こることで、
刺激を受け合ったんですね。
しかも、外部のチームがいたので、
いい意味で競争になった、ということですね。
小林
はい、チームにとっていい刺激になりました。
それが定期的に2年半、ずっとつづいたことが、
モチベーションを落とさずにいられた秘訣だと思います。
岩田
坂上さんはより広い範囲のプロジェクトを
ご覧だと思いますが、どう思いますか?
坂上
正直、出だしは「むちゃくちゃだなぁ」と
思っていたんですが(笑)。
一同
(笑)
坂上
チームの結束力がすごく強かったんです。
企画もプログラマーもビジュアル担当も、
みんなでいかにフォローし合うかという
ホスピタリティが、チームの中に根づいていて。
誰が「こうしてくれ」と言わなくても
助け合えるチームだったからこそ、
やりつづけられたのかなと思います。
それから、最初に「1年半でつくります」と宣言したことも
ちょうどよかったかもしれないですね(笑)。
「みんなでなんとかしよう!」
という空気が流れていましたから。
小林
でも、1年半だと、やはりきびしかったですね・・・。
ただ、はじめから2年半かかるってわかっていたら
企画も通らないでしょうし、そもそも起案しません(笑)。
坂上
まあ、今回は、その宣言がいい方向に転じたと思います。
岩田
すごいものができたと思うんですけど、
小林さんは今後のハードルをあげたなとも感じています。
まあちょっとちがう表現をすると、
「罪作り」なことをしました。
一同
(笑)
岩田
でもそれは、お客さんにとっては大満足なことなんです。
1本あれば家族がオールシーズン、
いろいろなゲームを楽しめるし、
1年中、リゾート気分を満喫できますから。
坂上
当初の目標をかなえるようなソフトには
なったのかなと思っています。
今回の苦労は、今後、非常に役立つと思います。
・・・って、苦労話になっちゃいました(笑)。
岩田
まあまあ(笑)、
今回は「誰でも遊べるオールシーズン」を
目指したつくり方でしたが、
今作はひとつのつくり方の方向性として、
究極を極めたものになったのかな、
という印象を受けました。
小林
ありがとうございます。
岩田
ところで、前回は坂上さんのバックボーンをうかがいましたが、
小林さんのバックボーンを訊いてもいいですか?
コンピューターやゲームとの出会いはいつごろでしたか?
小林
ゲームとの出会いは小学校1年生ぐらいです。
小学校の同級生の自宅にインベーダー(※6)の
筐体がありまして・・・。
※6
インベーダー=『スペースインベーダー』。1978年に登場し、一世を風靡したアーケードゲーム。
岩田
自宅にあったんですか?
小林
はい。そのころインベーダーが大ブームで、
友人の家で夢中になって遊びました。
そのあと小学5年生のとき、
ファミコンが発売されまして。
誕生日にねだって買ってもらって・・・、
本当に物心がついてからずっとそばにゲームがある環境でした。
岩田
じゃあ、成長過程にゲームはあって、
すごく好きだったんですね。
小林
はい。大学在学中はデバッグのアルバイトもしましたし、
もともとクリエイティブな仕事をしてみたいという
願望は漠然とあって、ですから就職活動のときには、
いちばん身近で、いちばん魅力的だったゲームの開発に関わりたいなと
自然と思うようになっていました。
岩田
小林さん、ご専門は何だったんですか?
小林
経営工学で、一応理系専攻だったんですが、
とくにプログラムを専門に勉強したわけではありませんでした。
絵心もないし、消去法で企画職しかなかったんです。
みなさんそうだと思うんですが、
根拠のない自信だけは満ち溢れてました(笑)。
それで当時、ナムコ(※7)に新卒で応募したんですけれども、
最終面接で落ちてしまいまして。
それで路頭に迷った挙句に小さなゲーム開発会社に入社しました。
※7
ナムコ(現バンダイナムコゲームス)=1955年に設立されたゲームソフトの開発やアミューズメント施設の運営などを行う会社。2006年に株式会社バンダイとゲーム部門を統合し、株式会社バンダイナムコゲームスとして再スタートを切った。
岩田
じゃあ、最初からナムコさんに入られたんじゃないんですね。
小林
はい、ちがいます。
わたしが入社した会社は、
その年からゲーム開発部門を立ち上げようとしていて、
上司は部長1人、開発スタッフは全員新卒、
企画はわたしだけで、プログラムは2人で、デザイナーは1人、
という不安な体制の会社でした。
で、「何かつくりなさい」と。
岩田
え?「何かつくりなさい」なんですか?
それはすごいですねぇ(笑)。
小林
毎日、企画書を書いたんですが全然成果がでなくて、
営業のサポートにまわったりもしました。
ようやく、入社して最初の夏ぐらいに、
プレイステーションのゲーム開発に
関わることができたんです。
そのときちょうどスノーボードにハマっていまして・・・。
岩田
ああ、ちゃんとつながっているんですね。
坂上
一応、そこはね、つながっているんです。
小林
はい。だからスノーボードのゲームをつくろうと。
そのころ、ちょうど坂上さんがつくった
『リッジレーサー』が出ていて、必死に研究しました(笑)。
レースゲームのスピード感に
スノーボードのトリックの要素を入れれば、
いままでとちがったアクションレースゲームとして
まとめられるかな、と思って企画を立ち上げたんです。
それがはじめてつくったソフトでした。
その作品をプレイした知人からは好評だったんですが、
「レースばかりじゃなく、本当にリゾートに行って
ゲレンデで楽しむような
スキーやスノーボードのゲームがあってもいいよね」
という意見をもらっていました。
岩田
あれ? つい先ほど、訊いたような話です(笑)。
小林
ただ、そのときは十字ボタンのインターフェイスでは、
本物のゲレンデのような斜度のゆるいスロープを低速ですべっても
全然刺激がないし、ゲームにはならないと思っていました。
岩田
昔の自分の中では、一度否定していたんですね。
小林
はい。ただその記憶は頭の片隅にずっとあって、
Wiiというインターフェイスが登場したことで、
ずいぶんあとに『ファミリースキー』の企画につながることになります。
それで、前の会社でスノーボードのゲームを何作かつくったあと、
30歳を迎えるころに、
やっぱりゲームセンターのときからあこがれていたこともあって、
もう一度ナムコにリベンジ応募したところ、
タイミングよく採用してもらえた、という感じです。
ナムコ入社後は『リッジレーサー』のディレクターを数本担当しました。
岩田
大変な思いをされているけれど、
すごく得るものもあったでしょうね。
小林
そうですね。
坂上
そんな経験があってか知らないですけど、
(小林さんを見ながら)この人、
ひるまないし、たじろがないんです。
岩田
「キリがいいから50です」と
断言できた理由のナゾが、いま少し解けました。
坂上
本当はいろいろ考えているはずなんですけど、
出てくる言葉は「キリがいい」(笑)。
岩田
それが妙にいさぎよく、ひるまず言える理由は、
そういう背景があったからなんですね。
坂上
あー、そうだったのか。
小林
そうでしょうか・・・(笑)。
岩田
・・・でも、誰かができるって信じないと、
ものはできないですからね。
坂上
本当にそのとおりですね。
岩田
最初からできるとわかっているゲームなんてないからこそ、
つくることが面白いわけですから。
毎回、「誰かができる!」って強く信じているから、
結果的にここに行き着いたんですよ。
小林
はい。言葉にすると現実になりますよね。
そういう力が言葉にはあるのかなとは思います。
坂上
小林くんはいつも
「できます!!」って言いますから(笑)。
小林
はい(笑)。