1. 開発者が何でもやる時代

岩田

こんにちは。

一同

こんにちは。

岩田

今日は、わたしにとって人生の先輩たちばかりにお訊きするという、
初めてのパターンでの「社長が訊く」になります。
今回は、ゲームボーイやニンテンドーDSのルーツである
任天堂初の携帯型ゲーム機『ゲーム&ウオッチ』の
開発の最前線におられた方々に集まっていただきました。
みなさん、よろしくお願いいたします。

一同

よろしくお願いいたします。

岩田

最初に、みなさんが当時どんなことをされていたのか、
まずは加納さんからお願いします。

加納

はい。だいぶむかしのことなので
記憶があいまいなところもあるんですが、
当時の任天堂にはデザインをする人間がとても少なくて・・・。

岩田

それこそ加納さんは、
任天堂がデザインを専門とする人を採用しはじめた頃の
第一期生のような方ですよね。

加納

その通りです。
ゲーム&ウオッチの開発がはじまったとき、
わたしはクリエイティブ課という部署に所属していました。

岩田

その部署は、かつて宮本さんも所属していたセクションですよね。
当時、何人くらいでしたか?

加納

わたしを含めて5名でした。

開発一部でゲーム&ウオッチをつくることになったのですが、
当時、開発一部にはデザイナーがいないということで
助っ人として参加することになり、
ゲームのデザイン的なことや
液晶の周りの銘板のデザインとか、
本体の色や、パッケージなど
デザイン全般を担当しました。

岩田

加納さんは、と呼ばれる
キャラクターのデザインから、外の箱に至るまで、
デザインに関わることは何でも担当されたんですよね。

加納

そうです。
それこそ“何でも屋”に近かったです。
でも、それはわたしだけでなく、
スタッフみんなが何でも屋みたいな時代でした。

岩田

出石(いずし)さんはどんなことをされていたんですか?

出石

わたしが担当したのは
ゲームを動かすためのソフトウェアを組むことで、
その仕事は山本さんと2人で担当していました。

山本

わたしと出石さんとで、
担当するソフトを交互にプログラムしていたんです。
それに、加納さんが言ったように“何でも屋”のところがあって、
ゲームのアイデア会議にも参加させてもらって
自分からもアイデアを出したりして、
ワイワイガヤガヤ言いながらつくっていました。

岩田

そもそも当時は、プログラマーと企画者とハード技術者は
いまほど職制が明確に分かれていなかったんですよね。

出石

その通りです。

岩田

だから、ハード技術者として入ってきた人でも、
プログラムも書いたし、アイデアも出したし、
場合によっては工作もしたし(笑)。

山本

はい。工作もしました。
それに最後は量産の段取りまで担当しました。

出石

さらに、最終的には
コマーシャル撮りにも行きました(笑)。

山本

行きましたね、コマーシャル撮りにも。
撮影現場に入ったら、スタッフのみなさんが
午後なのに「おはようございます」と挨拶していて、
なんか変だなあと思ったりして。

岩田

(笑)

出石

僕らは裏方として、大きな箱の下に隠れて
ゲームをするのが役目でした。

岩田

箱の下に隠れてゲームをするんですか?(笑)

出石

そうなんです。
僕たちは箱の下に隠れて
ケーブルでつないだゲームを操作する役目でした。
箱の表には照明があたっていて、
そこにゲーム&ウオッチが置いてあって、
タレントさんがそれを遊んでいるかのように撮影するんですね。
撮影時間がとても長かったものですから、
箱の外に出るとすごく明るかったのを覚えています。

岩田

あははは(笑)。

出石

でも、すごく貴重な体験をさせてもらいました。

山本

本当に貴重な経験でしたね。

岩田

マルチスクリーン(※1)の宣伝はよく覚えています。

出石・山本

(口をそろえて)♪マールチ、ラララ、マルチ。

岩田

そうですそうです(笑)。

出石

箱の下に入ってずっと聴いていましたから
よく覚えているんです。

一同

(笑)

※1

マルチスクリーン=2画面で折りたたみ式のゲーム&ウオッチ。1982年5月ので初登場。

岩田

ちなみに、みなさんは入社年次で言うと、
何年頃になるんですか?

加納

僕が入ったのがいちばん最初で、1972年の入社です。
当時の任天堂には開発セクションはひとつしかなくて、
入ってすぐに「開発部」というところに配属されました。

岩田

その頃、開発部全体では何人おられたんですか?

加納

20名くらいだったでしょうか・・・?
そこでボードゲームやミニゲームシリーズの
デザインに関わりました。

岩田

1972年頃は、ハイテクとは無縁の
ボードゲームのデザインをされていたんですね。
出石さんが入社したのは?

出石

1975年の入社です。
わたしも最初は開発部に配属されて、
『光線銃カスタム』(※2)のターゲットをつくっていました。
銃を撃って的に命中したら、人形がこけるんですけど、
その人形のデザインをしてくれたのが加納さんだったんですね。

加納

ですね。

出石

で、わたしはメカの部分に関わらせてもらったのですが、
筐体の設計からパッケージに関すること、
また、「こうしたら面白い」というアイデアの部分も含めて、
そのときも何でもやっていました。
で、そのあとにテレビゲームをつくるようになりまして、
当時はまだ、ソフトの入れ替えができないタイプの・・・。

岩田

(※3)ですね。

出石

はい。わたしはそのあとに発売された
(※4)(※5)などを
ハード屋さんとして、設計しました。

※2

『光線銃カスタム』=当たる光の量によって抵抗値が変化するセンサーを使った電子玩具。1976年に『光線銃カスタム ガンマン』と『光線銃カスタム ライオン』の2種類が発売された。

※3

『テレビゲーム6』と『15』=ともに1977年に発売されたテレビゲーム。それぞれ6種類、15種類のテニスや卓球などのゲームを遊ぶことができた。

※4

『レーシング112』=ハンドルとギアがついたテレビゲーム機。1978年発売。

※5

『ブロック崩し』=6種類の『ブロック崩し』が楽しめたテレビゲーム機。本体デザインは宮本茂が担当。1979年発売。

岩田

山本さんは出石さんの何年後の入社になるんですか?

山本

78年ですから、出石さんの3年後です。
わたしは、入社してすぐに
新人研修というかたちで、宇治工場の製造部に配属されました。
そこで、アーケードゲームの製造のお手伝いをして、
翌年、開発二部に配属になりました。

岩田

山本さんが入社したときは
開発部は開発一部と二部に分かれていたんですね。

山本

そうです。わたしが配属されたときは
『ブロック崩し』の開発が終わったあとで、
「次に何をつくろうか?」という話になって、
新しいゲームの試作品をつくったりしていました。
製品化の際には、LSIをつくるために
必要なマスクパターンを手描きで設計していました。

岩田

当時は、ゲーム機にはコンピュータが使われていなかったので、
プログラムを書くのではなく、ハードで遊びを実現されていたんですよね。

山本

当時はコンピュータが一般的ではなかったですから。

出石

当時のゲームは
ハード屋さんがつくっていたんです。

岩田

ひとつのゲームのために
それ専用のハードをつくっていたんですね。

出石

だから、ハード屋さんが
「ここのスピードはもっと速くしたい」と思ったら、
はんだごてを持ってきて配線を変えたりしていました。
それをみんなで遊んでもらって、
「う〜ん、もうちょっとかな」とか言いながら
延々と調整する作業を繰り返し、
「これでいこう!」となってから量産に入っていたんです。

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