1. プロモーション担当からプロデューサーへ
岩田
今日は『テイルズ』(※1)シリーズのプロデューサーである
バンダイナムコゲームス(※2)の吉積さんに
お越しいただいております。
吉積さん、ご足労いただきありがとうございます。
吉積
こちらこそ、今日はよろしくお願いいたします。
いま、ニンテンドー3DSで制作中の
『アビス』(※3)のスタッフがみんな生き生きと楽しそうで、
「工夫のしがいがあるハードだ」と言っているんですよ。
岩田
ありがとうございます。
開発スタッフのみなさんは好奇心の塊でしょうし、
新しいオモチャを手に入れたような気持ちなんでしょうね。
どんどん、いじり倒していただければと思います(笑)。
新しいハードをつくるときはいつも考えることなんですが、
従来のハードでは時間の経過とともに
新しい驚きを生み出すことがだんだん困難になりますから、
“いかにしてつくり手の閉塞感をやぶるか”ということを考えて
ニンテンドー3DSを開発してきたんです。
吉積
ハードをつくるのは、大変なんでしょうね。
でもすごく楽しそうでうらやましいです(笑)。
岩田
ええ、とてもやりがいのある仕事だと思います。
任天堂のソフトチームとハードチームが
キャッチボールした意見を反映させたり、
ソフトメーカーの方々にヒアリングして
その声を盛り込んだりしてきました。
逆にわたしたちの立場からお訊きしてみたいのですが、
吉積さんがはじめて3DSをご覧になったとき、
どんな印象を持たれましたか?
吉積
まず、どれぐらいのグラフィック能力か気になったんですが、
パッと見た瞬間、「すごい」って思いましたね。
ずっとDSでソフトをつくってきて
「こうだったらいいな・・・」という希望がかなっていたので。
岩田
ソフトメーカーさんとの窓口を担当している業務部から
「グラフィックス表現上の制約があるために、
ニンテンドーDS向けにはつくれないソフトがある」と
指摘されることが多かったという報告を聞いていましたから、
その問題をなんとかしたいと思っていたんです。
3DSではその問題を解決することができたと思いますし、
ソフトメーカーさんからの要望にもとづいて、
必要になるグラフィックデータを格納できるように
大きな容量のロムも用意しました。
吉積
そうですね。お客さんにとって、
据置機と携帯機のグラフィックスの差は
「どっちがよく見えるか?」だけであって、
ハードの性能は関係ないですから。
岩田
はい、お客さんには、つくり手の事情は関係ないですからね。
吉積
そうなんです。いつも、そこに気をつけていて、
力不足のときは申し訳ないと思っていたんです。
岩田
では『テイルズ』についておうかがいしますが、
シリーズがはじまって、もう何年になりますか?
吉積
1995年からですから、今年で16年目です。
最初はスーパーファミコンでしたが、
その頃のナムコにはRPGがあまりなかったんです。
岩田
ナムコさんの母体は、もともとアーケードでしたから、
アクションやレース系のゲームは多くても、
RPG系のゲームはなかったんですね。
吉積
はい。当時、わたしは開発ではなく、
プロモーション担当で、自社のオリジナルブランドで
RPGを出したいなと考えていたんです。
それで15年前に『テイルズ』1作目(※4)を発売したんですが、
本当は、その1年前にはできていたんです。
でも、でき上がったものがダメだったので、
1年後につくりなおして出したんです。
岩田
幻の『テイルズ』1作目があったということなんですね。
没にしたものと、1年後に磨いて出したものと、
どこが違っていたんですか?
吉積
このゲームだけでしかできないことを増やしました。
当時、いっしょにプロモーションチームを組んでいた上司と
最初にできたものを見なおしてみると、
「ほかのRPGと比べて、個性がない」と思ったんです。
岩田
では、もしそのまま出していたら、
シリーズとして確立していなかったかもしれないわけですね。
吉積
そうです。1作目はすごくこだわって、
開発の人ともやりあいながらつくりました。
結局、同時期に『ドラクエ』(※5)が出たこともあって
本数的にはあまり売れなかったんですけど、
購入されたお客さんから高い評価をいただけて、
自分たちでも「いいものができた」という実感もありました。
それから・・・攻略本がたくさん売れたんです。
岩田
ああ、それは面白いですね。
ゲームに深く入り込む方の割合が高いということですからね。
吉積
はい。キャラクターも立っていたし、
当時、ほかのソフトにはないくらい
声優さんが前面に出ていたし、歌もあったし、
そこに対する反応も大きかったんです。
岩田
当時は、あの少ない容量のロムカセットのなかで、
あれほどしゃべって歌うソフトはなかったと
評判になりましたから。
『テイルズ』は、ほかのゲームがやらなかったスタイルの
贅沢(ぜいたく)を積極的にしていたソフトでしたよね。
吉積
そうかもしれません。
それでもう1回つくろう、ということになり、
それからずっとかかわっています。
岩田
1作目が期待したほど数が伸びなかったにもかかわらず
次をつくろうとしたのは、やはり強い手ごたえや、
お客さんからの支持を感じたからですか?
吉積
はい。売上自体はよくなかったんですが、
「ぜんぜん、いけてなくはないよね」
というデータがたくさん出てきたんです。
それで、もう1回つくって勝負することにしました。
次はもっと大きな失敗になるかもしれなかったんですが、
そこは共通認識として、成功できる確信があってはじめました。
みんな若かったし、勘違いもあったと思いますけど、
その結果、ずっといままでやってこられましたね。
岩田
そこで諦めていたら、シリーズ化はなかったんですね。
吉積
そう思います。
でなければ、きっとわたしも
プロモーション担当のままだったと思います。
開発の仕事は『テイルズ』がキッカケなんです。
ずっとプロモーションの仕事をやりながら、
タイアップアーティストはどうする、とか
どういうふうに売っていくのか、とか
開発に指示をしながら仕事をしていたんです。
そしたらあるとき上司から、
「そういうのはプロデューサーっていうんだよ」
って言われたんです。
岩田
ああ、ものができてから「どうやって売るのか」を
考えるだけではなくて、つくり手といっしょに、
「売るためのものづくり」からやっていたんですね。
吉積
はい。そういう流れで、
上司から「お前がやれ」と言われました。
開発管理とかタイアップのこととか、
本来なら開発が主導でやるようなことも
全部わたしがやるようになったんです。
岩田
あえてこの言葉を使いますが・・・、
雑用的なことも含めて、誰もやっていない仕事は全部、
プロデューサーの役割だったということですね。
吉積
やる気がある人がやらなきゃいけなかった、といいますか・・・。
岩田
仕事を発見した人が、自分で解決するんですね。
吉積
はい。いまでもそうですが、
気づいた人がやらないと先に進まないんです。
じつは、声優さんのディレクションもずっと担当していたんです。
普通は、制作側が音声スタジオに行って、
収録する音声に対して「こうしてほしい」と意見を言いますよね。
岩田
表現したいものの背景をきちんと伝えないと、
ふさわしい形になりませんからね。
吉積
そうなんです。
でも、以前はそこがわりと弱くて、
全部、音声ディレクターに任せちゃっていたんです。
「ちゃんと伝えようよ」と提案しても誰もやる人がいない・・・。
そこで、わたしがこっそりとやることにして(笑)。
岩田
それは、吉積さんがまだプロモーション担当のときですか?
吉積
はい。プロモーション担当が、声優さんに・・・(笑)。
岩田
それは立派な開発の仕事ですね。
吉積
まあ、当時はそういう意識がなくて、
「誰かがやらなきゃいけない仕事ならやりましょう」
という感じでした。
いまだに、プロモーション担当時代のソフトで
アニメやOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)などで
声を入れるシーンがあれば、
わたしが行って、プロデューサーになったいまでも
そういうところは見るようにしています。