岩田
今日は、ニンテンドー3DSで楽しめる
『ドラゴンクエストVII』のお話をお訊きします。
オリジナル版(※1)の発売が2000年ですから、
今年で13年経つわけですね。
藤本
ゲームが発売されたのは8月だったので、
12年半ほど前になります。
堀井
あの時は完成までに、
本当に時間がかかってしまいました。
眞島
「出ますように!」っていうCM(※2)から
出るまでに1年半かかっていますね。
岩田
はい、あの宣伝はわたしも
すごく印象に残っています(笑)。
堀井
あのときはじめて『ドラクエ』を
CD-ROMメディアでつくったんですけど、
「とにかく容量が多く入る」ということで
はりきって、つくりすぎちゃったんです。
岩田
制限から解き放たれた人たちが
やりたかったことを表現しようとしたのが、
『VII』の歴史なんですよね。
藤本
スクウェア・エニックスに
歴代の『ドラクエ』の仕様書が保管されているんですけど、
『VII』はほかのナンバリングよりも圧倒的に多くて
「これ、ほとんど『VII』なんじゃない?」
というくらいの量があるんです。
しかも資料がぜんぶ、紙なんですよ。
堀井
『VII』までは、紙に手書きでシナリオを書いて、
データとかもすべて紙上でつくっていました。
岩田
時代を感じますね。
堀井
ちょうどシナリオスタッフを増やした頃で
毎週、スタッフからこのくらいの
(人差し指と親指をいっぱいに広げて)
シナリオが送られてくるんです。
それを一言一句読んで、修正を延々やって・・・。
あの時は毎日つらかったなあ。
一同
(笑)
藤本
1日に数百枚のFAXをやりとりするので、
機械がしょっちゅう故障したそうです。
岩田
紙で扱うには、もう手におえない量ですよね。
振り分ける作業だけでも大変そうです。
堀井
『VII』ではじめて、仲間と会話するシステムを
取り入れたんですけど、そのセリフの量がまた
とんでもないことになっちゃって。
杉村
それまでのシリーズでは
仲間キャラクターと話せなくて、
誰もいない方向に「はなす」コマンドをつかうと
「その方向には誰もいない」と表示されていたんです。
それもちょっとさみしいので、
「そこを変えよう」と話をした覚えがあります。
堀井
物語的に仲間になるキャラクターも、
仲間になる前はいろいろ話せたのに、仲間になった途端
そのキャラと話せなくなるのは寂しかったので
仲間セリフシステムを入れました。
でもそれが、とんでもない量になってしまって(笑)。
岩田
そんなふうに
「できるんだからやろう」と
次々とやっていったら、
爆発的な作業量になったわけですね。
堀井
そうなんです。
でも、あの仲間と話せるシステムは
当時のお客さんに、けっこうよろこんでもらえたと思います。
話したとき、ボロクソ言われたほうがおもしろいだろうと
マリベル(※3)は、かなりツンデレな性格にしました。
あの当時は、ツンデレという言葉もなかったですが(笑)。
岩田
・・・あの、すみません。
もう本題がはじまってしまいました(笑)。
一同
(笑)
岩田
では自己紹介をお願いします。
まず、あらためてご紹介するまでもありませんね。
『ドラクエ』の生みの親である、堀井雄二さん。
堀井
はい。よろしくお願いします。
藤本
今回『ドラゴンクエストVII』の
プロデューサーを務めます
スクウェア・エニックスの藤本です。
岩田
藤本さんはオリジナル版のとき
何を担当されていたんですか?
藤本
発売された時は、まだ大学4年生でした。
岩田
あっ、まだ遊ぶ側だったんですね。
藤本
はい。ゲームを遊んでいた友達同士で
「××の石版(※4)はどこにある!?」って聞き合って、
あの当時でクリアまで120時間くらい遊びました。
堀井
いや~、本当に長くつくりすぎてしまいました。
そのせいで発売もかなり延びてしまって・・・。
藤本
本当はたぶん、わたしが就職活動中に
ゲームが発売されていたはずだったんです。
でも結局、当時のエニックス(※5)から
内定をもらったあとにゲームが発売されたので、
そのぶん気楽にじっくりと楽しめました。
岩田
『ドラクエ』にあこがれ、
これからつくる側になろうという時、
ワクワクしながら楽しまれたわけですね。
眞島
アルテピアッツァ(※6)の眞島です。
アートディレクターを担当しています。
オリジナル版は初の3Dポリゴンということで
やり尽くせなかったこともたくさんあり、
今回リベンジという意味もこめてやっています。
岩田
リベンジということは、
12年半前のオリジナル版と今回の3DS版、
両方にかかわられているんですか?
眞島
はい。自分で一度つくったものなので、
「昔ほど苦労しないかな」と思っていたんですが
高い山はやっぱり、高い山のままで・・・。
つくり手としても歯ごたえがありますね。
杉村
アルテピアッツァの杉村です。
わたしは大学在学中に『ドラクエIII』(※7)を遊んでいて、
その時ゲーム雑誌でたまたま見かけた
「堀井雄二の秘書募集」という記事への応募が、
この業界に入ったきっかけです。
岩田
業界に入るきっかけが、
堀井さんからだったんですね。
杉村
はい。それで『ドラクエIV』(※8)から
シナリオのアシスタントとして参加したんですけど、
その後エニックスの千田さん(※9)に勧められ、
眞島と一緒にアルテピアッツァを立ち上げました。
岩田
ああ、なるほど。
アルテピアッツァさんが『ドラクエ』と
長くかかわりを持たれていたのは知っていたんですが、
そういった成り立ちだったんですね。
会社をつくられたのはいつ頃なんですか?
杉村
会社の設立としては1989年なんですが、
その頃はまだ眞島がひとりで、
パソコンと家庭用ゲーム機を並行して
つくっているような感じで、
いまのように会社として整えたのは
2000年頃だったと思います。
眞島
1989年頃はまだ、
画描きとプログラマーがひとりずついれば、
ゲームがつくれる時代だったんですね。
そこからチームを意識したゲームづくりに
変わっていったのは、杉村が合流して、
『VII』をつくるあたりだったと思います。
岩田
眞島さんは家庭用ゲーム機なるものが
まだ世になかった頃から、
ゲームづくりを体験されている世代ですよね。
堀井さんもパソコンゲームを
ひとりでつくるところからはじまっていますし、
わたしもハル研(※10)のアルバイト時代は
いわゆるパソコンゲームからはじまったんです。
眞島
僕が当時エニックスさんの
パソコンゲームをつくっている時、
堀井さんが巨大な『III』のロム基板を持って、
打ち合わせをされていたのを、横から見ていたんですよ。
当時あのロムがすごくうらやましくて、
輝いて見えた記憶があります。
「大容量2メガ!」(※11)って、
当時としてはかなりの容量でしたから。
岩田
一応補足すると
“2MB(メガバイト)”ではなくて、
“2Mbit(メガビット)”ですからね(笑)。
一同
(笑)
岩田
でも、それも『VII』でCD-ROMになると
単純に軽く1000倍以上の容量(※12)になるわけで、
規模感がまったくちがってきますよね。
眞島
そうですね・・・。
岩田
しかも『ドラゴンクエスト』というタイトルは、
堀井さんのこだわりがあるわけですから、
「それをどうやって隅々まで通わせるか」という
大きな壁にはじめてぶつかったのが、
『VII』だったんじゃないですか?
堀井
まあ、実際、大きすぎましたね。