1. 「絶対、ゲーム業界に行く!」
岩田
『鉄拳3D プライムエディション』を
手がけたバンダイナムコゲームス(※1)の
おふたりにお越しいただきました。
ご足労いただきありがとうございます。
今日はよろしくお願いします。
一同
よろしくお願いします。
岩田
では、最初に自己紹介もかねて、
おふたりのビデオゲームとのかかわりから
訊いてもいいですか?
原田
仕事として・・・ですか?
岩田
いえ、仕事の前にもきっと
ビデオゲームとのかかわりがあったでしょうから、
そのことも含めてお願いしたいです。
原田
わかりました。
『鉄拳』シリーズ(※2)プロデューサーの原田勝弘です。
僕は子どものころにですね、
親戚の喫茶店に『インベーダー』(※3)があって、
それ以来、すごくゲームが好きになったんですけど、
厳格な両親に「ゲームは一切禁止!」と言われまして。
岩田
まさか将来、原田さんが頭から高層ビルに突っ込んで
小野(義徳)さん(※4)と対峙するなんて、
ご両親は夢にも思わなかったでしょうね(笑)。
原田
はい(笑)。
ファミコンも買ってもらえず、ゲームは、
友だちの家でやるか、ゲームセンターで
こっそりやるしかありませんでした。
だからその反動で、就職のときは
「絶対、ゲーム業界に行く!」と決めていました。
親はずいぶん泣いていましたけど。
岩田
まだ世代的には、ゲーム業界というと
親御さんが反対された時代でしたか?
原田
僕は昭和40年代生まれですけど、
わたしの親の世代ではゲーム業界は
海の物とも山の物ともつかない感じでした。
岩田
大学ではどんな勉強をされていたんですか?
原田
僕は文系の心理学専攻だったので、
ゲーム業界とは関係ありませんでした。
縁があって、たまたま最初にナムコの内定をもらって、
はじめは制作ではなく、営業で入りました。
岩田
営業からスタートされたんですか。
原田
はい。じつは“ゲームをつくる”ことさえ頭になくて、
ただ、「ゲームを遊びながら生活できたら、
どんなに自由で楽しいだろう・・・」という
妄想で頭がいっぱいでした(笑)。
いかに大勢を巻き込んで遊ぶかを考えて、
営業でゲームのイベントをやろうと思っていたんです。
岩田
ひょっとしたら、ご両親がゲームの面白さに
共感してくださらなかったことに対する
反動だったのかもしれませんね。
原田
そうです。じつは反動なんです!
僕の心の中から湧き出るゲームに対する情熱は、
何かに対する反動や反抗も、
ひとつの大きな要因になっています。
岩田
じゃあ、営業で入った原田さんの
最初の仕事はイベントの運営だったんですね。
原田
はい。ナムコが直営するゲームセンターで店員をしつつ、
お客さんを集めて『ストリートファイター』(※5)などの
トーナメントを行いました。
アーケードゲームは直接お客さんの反応が見られるので、
それが自分の中で経験値としてたまっていきました。
そのうち、「僕だったらこうするのになぁ」と思うところは、
開発に転がり込んで、提案するようになりました。
岩田
そういうことは
最初から自由にやらせてもらえたんですか?
原田
いえ、本当はダメだったんですけど、
社会人1年目で何も知らなかったので、
2カ月目には勝手に開発のビルに入っていました。
岩田
え? 本当に?
開発の部署って、入退室のセキュリティも厳しいですよね?
原田
はい、だからトイレの前で
セキュリティドアが開くのを待っていたんです(笑)。
最初はみんな「誰だ?」って顔をしていたんですが、
堂々と週に何日も行っていたら、
「この人は認められて入ってきているんだな」って、
思い込んでくれたみたいです。
岩田
・・・まぁ確かに、開発者の心理からすれば、
最前線の情報を持つ人が来てくれることは、
すごくうれしいことですからね。
それにしてもルールの破り方が面白いですね(笑)。
いつからゲームをつくる側にまわったんですか?
原田
ちょうど2年目の4月です。
たまたま自分がコスプレをして、
ゲームセンターでMCをしたり、
バカなことをするという集客イベントをやっていたら、
1年目の営業で社長賞をもらいまして、
そのとき、社長に
「ところで僕、部門異動したいんですよね・・・」
と直接言っちゃいました(笑)。まわりからは
「ちょっと待て待て待て!」って言われたんですけど、
「社長に言えば、なんとかなるかな?」と思ったんです。
それで4月に部門異動することになりました。
岩田
はあー、制度を無視する反則ぶりが面白いですねぇ(笑)。
でも、「もっとゲームを理解してほしい!」
という原田さんの本物の気持ちが、
かかわった人全員に伝わったんでしょうね。
原田
そうかもしれません。
いちばん僕が注目していたのは、
ゲームの魅力を伝えるのに
僕ひとりの声だと限界があることだったんです。
当時はネットもないのでクチコミも難しいし、
日本人は恥ずかしがり屋で、ゲームセンターでも
知らない人同士だとしゃべらないんです。
岩田
対戦格闘ゲームのブームのころは、
みんな無言で戦っていましたね。
原田
はい。当時はそれをなんとかしたいと思っていました。
そこで想像したのが、学校でひとり面白い人がいれば、
その人の話題を介して周囲が会話しますよね。
そのコミュニケーションをゲームに活かそうと思って、
僕がイベントでカツラをかぶって、コスプレして
マイクパフォーマンスしたんです。
そしたら僕を中心にみんながしゃべるようになって、
ゲーム中やイベント中にも歓声が上がるようになったんです。
社会人1年目である息子のその姿を見て、
親は大泣きしましたけど(笑)。
岩田
みんなが原田さんを見て会話が生まれれば、
ゲームの面白さが変わる、
ということを実践したんですね。
池田
トレーナーが面白いことをやって面白いものを伝える、
という原田さんの姿勢は、いまも同じでブレてないです。
原田
僕は基本的にそういう考えです。
よく言われますけど、いいものをつくるだけじゃなくて、
どう伝えるかということも大事ですよね。
「ゲームはこれだけみんなが楽しめるものだ」ってことを、
厳格だった親にも伝えたかったんです。
岩田
部門異動して、開発の人たちに受け入れられるまで、
どんなやり取りがありましたか?
原田
これがまた、僕が空気を読んでいなかったんですけど・・・。
異動して2日目で、挨拶もそこそこに
「アクションゲームは全部僕の言うとおりにつくったほうがいいです」
って各セクションリーダーに言ってまわったんです。
岩田
えっ? 入社2年目で開発に来たばかりなのにですか?
原田
はい。いきなり「ゲームディレクター」としてやっていましたから、
まわりは受け入れてくれていると、勝手に思っていました(笑)。
岩田
池田さんは、その様子を見ていたんですか?
池田
いえ、そのころ僕は
ほかの会社で映像の仕事をしていたので知りませんでした。
だから入社してからその話を聞いて、びっくりしました(笑)。
岩田
・・・いままでいろいろな
ゲーム制作者の方にお会いしましたが、
はじめてのパターンかもしれないです(笑)。
でも、こうしたほうが面白いと思っても、
そうなるとは限らないこともありますよね。
原田
そうですね。
だから僕の場合、情熱というよりも“執念”なんです。
最初は意識的に、毎日最後に退社するようにしました。
「人生の半分以上、仕事に懸けている」
ってことを周囲に伝えたかったんです。
いま思えばおかしな話ですが、
でも、そこだけでもみんなに説得力を持たせようとしていたんです。
約6,000通ほどの読者ハガキが返ってきたときも、
二晩で読みおえて、表を作成していましたから。
岩田
でもそれは、
単に「チーム内へのアピールのため」ではなく、
「自分たちのアウトプットに対する反応を
分析せずにはいられなかった」んじゃないですか?
たくさん現場を見て、フィードバックして、
自分の中で“かくあるべきこと”を組み立てていく、
そういうプロセスがあったんですよね。
原田
そうです。そのとおりです。
お店でもアンケートでも、
お客さんからのフィードバックはいつも気になっていました。
それをいちばん知りたかったんです。