社長が訊く
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社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇

社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇

第22回:『エクストルーパーズ』

目次

2. プログラマーからディレクターに

岩田

安保さんのゲームとの出会いは、
どんなものだったんですか?

安保

わたしは73年生まれで、
小嶋より若干古いんですが、
ファミコンの出るちょっと前で、
駄菓子屋さんに置いてあったゲーム筐体が
最初の出会いだったと思います。

岩田

駄菓子屋さんって、もともと
日常的に子供のたまり場でしたから、
そこにゲーム筐体があれば
自然にふれる機会があったということですよね。

安保

そうですね(笑)。
それが小学校の低学年くらいのころです。
学校から“ゲームセンター禁止令”が出ているなか、
みつからないように隣の校区に行ったり・・・。

一同

(笑)

岩田

そのころはどんなゲームを遊んでいたんですか?

安保

よく遊んだのは『忍者くん』(※11)
『テラクレスタ』(※12)とかですね。
自分の中でファミコンが登場したのは
たしか小学校5年生くらいのときなんですけど、
そのときはもうすでに、
「将来ゲームをつくろう」って決めていました。

※11
『忍者くん』=『忍者くん 魔城の冒険』。1984年にUPLよりアーケードでリリースされたアクションゲーム。
※12
『テラクレスタ』=1985年に日本物産からアーケードでリリースされたシューティングゲーム。

岩田

はい(笑)。

安保

たぶん、ゲームにかぎらず、
「つくりたい」っていう気持ちが
子供の自分の中にずっとあって、
絵とかもよく描いていたんですよ。
それがゲームにふれることで目標が明確になって。
プログラムの勉強をはじめました。

岩田

するとやっぱり、
いまディレクターになっておられるのは
自然なことかもしれませんね。
目標により近づいていったわけですから。

安保

そうですね、はい(笑)。

岩田

カプコンさんには
どんなきっかけで入社したんですか?

安保

子供のときからカプコンは知っていたんですけど、
『ストリートファイター』(※13)が一世を風靡したときに、
あらためて「カプコンすごいな」と感じたのと、
単に家から近かった、というのはあります(笑)。

※13
『ストリートファイター』=1987年にカプコンよりアーケードでリリースされた対戦格闘アクションシリーズ第1作。ここでは1991年に登場した『ストリートファイターII』を指す。

岩田

それで入っていきなり、
『バイオハザード』の立ち上げに
かかわったわけですね。

安保

はい。

岩田

最初の『バイオハザード』って
ある意味、まだ文法が決まってないゲームを
ゼロからつくっていたわけじゃないですか。
当時『アローン・イン・ザ・ダーク』(※14)みたいなゲームが
刺激になっている部分もあったのかもしれないですけど、
あの当時のハードのスペックで
「どういう遊びを恐怖としてつくりえるか」という点で、
けっこうおもしろいチャレンジでしたよね。

※14
『アローン・イン・ザ・ダーク』=1992年にフランスのゲーム会社インフォグラム・エンターテインメントよりパソコンで発売された3Dホラーアドベンチャー。

安保

いま考えると、本当に貴重な体験でした。
つくっては壊しての繰り返しで、
カット切り替えのカメラ視点なんかも、
あそこにたどりつくまで、かなり苦労していて。

岩田

あのカット切り替えのシステムは、
「先が見えないから怖い」ということと、
あの構造にするとカメラが固定になり
背景を毎フレーム描画しなくてもよくなるので、
「リアルタイム生成するポリゴンが最小限ですむ」という、
じつに効率よい構造なんですよね。

安保

そうですね(笑)。
当時わたしを含めて、新人が中心になって
できたプロジェクトでした。
しかも全員がはじめての3D、という・・・。

岩田

「みんなが未経験で、何ができないかわからない」から、
すべてチャレンジしてみるしかないわけですね。

安保

そういう意味では、ディレクターから
「こんなのできますか?」って言われて
「じゃあやってみます」ってやっていたんですけど、
あとでディレクターから
「あのときはいろいろ助けられたよ」って
すごく感謝されました。

岩田

ああ、「知らないって強い」ということですかね(笑)。

一同

(笑)

岩田

その『バイオ』をつくりながら、
次に企画の仕事に
足を踏み入れるきっかけは何だったんですか?

安保

きっかけとしては『鬼武者』ですね。
これもまた新ハードでのゼロからの立ち上げで、
ガリガリとコードを書き、会社に泊まり込んで
エンジンをつくっていたんですけど、
ひと段落したところではじめて、
プレイヤーキャラクターの
プログラムを担当させてもらったんです。

岩田

はい。

安保

プレイヤーはゲームの中心的存在なので、
すべての要素に密接にかかわるじゃないですか。
それでプレイヤーを通して見ているうちに、
「敵はもっとこうしたほうがいい」とか、
「背景もこっちのほうがいい」とか
いろんなところに目がいきはじめたんです。

岩田

根っこがゲーム好きだから、
プログラムだけで
黙っていられなくなったんですね。

安保

はい(笑)。それで
いろいろ口を出しているうちに、
『鬼武者3』(※15)のスタッフロールでは
プログラムと企画の両方に、名前が載りました。

※15
『鬼武者3』=2004年2月にカプコンより発売されたシリーズ第3作。

岩田

プログラムと企画って、
明確に仕事内容がわかれていることが多いと思うんですけど、
カプコンさんの中でも
相当めずらしいパターンじゃないですか?

安保

まわりにはあんまりいないですね。

岩田

デザイナー出身で企画を担当されるという方は
珍しくないんですけどね。

小嶋

カプコンは「言い出しっぺがやる」というのが
非常に強い会社なんです(笑)。

安保

そういう意味では、企画とプログラマーが
一緒にタッグを組んでやることが普通なんです。
「両方ひとりでやるのはさすがにきつい」と、
『鬼武者3』では痛感しました。

岩田

はい(笑)。でもその後さらに、
ディレクターになられるわけですよね。

安保

その後『バイオ5』で
またプログラマーをしていたんですが、
プロジェクトが進むうちに、
いつかディレクターをやることになったんです。

岩田

それは、どんな経緯なんですか?

安保

じつは『バイオ5』をやる前に、
『シャドウ オブ ローマ』(※16)というゲームがあって、
そのチームが苦戦していた時期があったんですね。
そんなときに竹内(潤)(※17)から
「このままじゃ無理だから、手伝ってくれ」って
言われて、途中から参加したんです。

※16
『シャドウ オブ ローマ』=2005年3月にカプコンより発売された古代ローマが舞台のアクションアドベンチャー。
※17
竹内潤さん=カプコン常務執行役員 CS制作管理統括 兼 プロダクト支援部長。プロデューサーとして『バイオハザード5』『ロスト プラネット 2』などの開発に携わる。

岩田

助っ人ですね。
落下傘で戦場に降りていくという。
わたしも開発者時代によく経験しました(笑)。

安保

はい(笑)。
そのときはまたプログラマー兼企画として参加して、
わりとうまくまとめることができて。
それでまた『バイオ5』に戻って
プログラムをしていたんですけど、
『バイオ5』のチームが
ちょっと苦戦しはじめていたんですね。
そんなとき、また竹内から、
「おいしいものを食べにいこう」って呼び出されて、
「何だろう?」と思いつつ行ったら、
「ディレクターをやってくれ」って言われたんです。

岩田

突然、上司がご飯をおごってくれるときは要注意、
ということですね(笑)。

小嶋

(安保さんに向かって)
4000円のビーフカツだっけ?

安保

そう(笑)。
「何が食べたい?」って聞かれたので、
そのころ話題になっていたおいしいビーフカツのことを話したら、
そこに連れて行ってくれたんです。
あとで「安くすんだわー」って言われましたけど。

一同

(笑)

岩田

しかし、いろんな壁を越えてきましたよね。
プログラマーも企画もディレクターも、
それぞれ視点がまったくちがいますし、
ディレクターでしたら、
つくり手視点の総指揮を執ると同時に、
お客さんの視点も持たなきゃいけないわけですから。

安保

『バイオ』で学んだのが、まさにそこでした。
つくり手として「こっちのほうが楽」って
やってきていたことが、ユーザー視点だと
「ぜんぜんダメ」ってことがあるんですね。

岩田

ディレクターをされるとき、
安保さんがいちばん
大事にされていることって何ですか?

安保

「チームのモチベーションを引き出す」ことですね。
同じものをつくるにしても、
それぞれが持っているスキルやアイデアを
どのように活かすかで、
「できあがってくるものもちがう」と思っています。

岩田

はい、これはわたしの持論でもありますけど、
「つくっている人がどんな顔してつくったか」って、
ぜったいにお客さんに伝わると思うんですよね。

安保

そう思います。
いかにその環境をつくるかが大事だと思っているので、
『エクストルーパーズ』でも
みんなに仕事がやりやすい環境をつくりつつ、
アイデアはできるだけ活かして、
そのうえで、お客さん視点となる軸を忘れないように、
つねに心がけてやってきました。