社長が訊く
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社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇

社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇

第2回:『戦国無双 Chronicle』

目次

1. 小学2年生からゲームセンター通い

岩田

コーエーテクモゲームス(※1)で、
『無双』シリーズ(※2)を担当されている
鯉沼さんからお話をお訊きします。
今日はご足労いただき、ありがとうございます。

鯉沼

よろしくお願いいたします。

※1
コーエーテクモゲームス=2010年に、株式会社コーエーとテクモ株式会社が合併し設立された会社。本社は神奈川県横浜市。
※2
『無双』シリーズ=『真・三國無双』を元にするアクションゲームシリーズ。複数の敵と戦う3Dアクションゲームで、『戦国無双』『ガンダム無双』『北斗無双』などの派生作品が生まれている。

岩田

まず、ニンテンドー3DSの新作ソフト
『戦国無双 Chronicle』の話に入る前に、
鯉沼さんとビデオゲームとの
出会いの話からお訊きしようと思います。
そもそも鯉沼さんがビデオゲームに出会ったのは、
どのくらい前なんですか?

鯉沼

ちょっと記憶があいまいなんですが、
ゲームに対して確実に興味を持つようになったのは
小学2年生のときです。

岩田

そのとき、どんなゲームに興味を持ったんですか?

鯉沼

その当時、とくに好きになったのは
『ヘッド・オン』(※3)というアーケードゲームです。

岩田

ああ、『ヘッド・オン』ですか。
同心円状の何重かのコースがあって、
そこにクルマを走らせて、
ドットをどんどん消していくゲームですよね。

鯉沼

そうです。

※3
『ヘッド・オン』=1979年にセガが開発したアーケードゲーム。ドットイートゲームの元祖といわれている。

岩田

小学2年生という早い時期に
アーケードゲームに興味を持ったのはどうしてなんですか?

鯉沼

わたしには3歳上の兄がいるんですけど、
兄に連れられて、兄の友だちの家で経営している
ゲームセンターみたいなところに行っていたんです。

岩田

では、わりと小さい頃から
ゲームセンターに縁があったんですね。

鯉沼

そうですね。
なので、ファミリーコンピュータが出る以前から、
『ドンキーコング』(※4)や『マリオブラザーズ』(※5)
といったゲームを、ゲームセンターで遊んでいました。

※4
『ドンキーコング』=1981年にアーケードで登場したアクションゲーム。1983年にファミコン版が発売。
※5
『マリオブラザーズ』=1983年にアーケードで登場したアクションゲーム。ファミコン版も同年に発売。

岩田

その頃から「ゲームを遊ぶ」ことに興味があった一方で、
「ゲームをつくる」ことを意識しだしたのは
いつ頃なんですか?

鯉沼

つくることを意識しはじめたのは、中学生のときです。
その頃『ベーマガ』という雑誌があったのはご存じですか?

岩田

はい、『マイコンBASICマガジン』(※6)のことですね。

鯉沼

そうです。
その雑誌にはプログラム投稿ページがありまして・・・。

岩田

当時はインターネットがありませんから、
毎月発売される雑誌が主な情報源になっていて、
そこに載っているプログラムを見ながら打ち込んだり、
自分でつくったプログラムを投稿したりしていたんですよね。

※6
『マイコンBASICマガジン』=1982年から2003年まで、電波新聞社が発行していたパソコン雑誌。

鯉沼

そうなんです。
ただ、あの当時はパソコンがとても高価でしたので、
中学生だったわたしは買ってもらうことができなかったんです。
そこで、空想で手描きのプログラムを書いたりして、
ひとりで遊んでいました。動くかどうかもわからないのに(笑)。

岩田

その頃、ビデオゲームに興味を持った人は、
プログラムからアプローチしていた人が多いような気がするんですね。
まあ、わたしもそうなんですけど。

鯉沼

そうですよね。
だから、どうしてもパソコンがほしくて、
それまでに貯めたお年玉をくずして買わせてほしいと
親に懇願したんですけれども、けっきょく実らなかったんです。

岩田

じゃあ、“空想プログラマー”時代がけっこう長かったんですね(笑)。

鯉沼

そうですね(笑)。
友だちの家に行くと、ファミリーベーシック(※7)とか、
ぴゅう太(※8)とか、ホビーパソコンと呼ばれるようなものがあって、
それを触らせてもらったりしていました。
そういうことが、高校まで続いたでしょうか。

※7
ファミリーベーシック=ファミコンの周辺機器のひとつで、キーボードが付属しており、簡単なゲームプログラムを自作することができた。1984年6月発売。
※8
ぴゅう太=トミー工業(現タカラトミー)が発売したホビーパソコン。自作のゲームをつくることができた。

岩田

すると、本格的にコンピューターを触れるようになったのは
大学に入ってからなんですね?

鯉沼

そうです。
ただ、あの頃は、情報系の大学や学部がまだ少なくて、
そのなかでも、パソコンの設備が充実したところへと思いまして、
東京電機大学の情報学科に入学しました。
そこから、本格的にパソコンを触りはじめたという感じです。

岩田

授業の課題以外にも、
学校のコンピューターにはかなり触りましたか?

鯉沼

えー、実を言いますと、
やっぱりゲームが大好きでしたので、
高校時代から大学を卒業するまで、
ゲームセンターでずっとアルバイトをしていたんです。
なので、ゲーセンで遊ぶことが多くて(笑)。

岩田

(笑)。
仕事を選ぶときは、
どんなことを考えて会社を決められたんですか?

鯉沼

ゲーム会社に就職しよう、というのは
大学に入る前から決めていたことだったんです。

岩田

ああ、そうなんですね。
それを実現するために情報学科を選んだということですか。

鯉沼

はい。なので、就職活動では
ゲーム会社を3社くらいしか受けませんでした。
それで昔のコーエー(※9)、いまのコーエーテクモゲームスに
1994年に入ったという流れです。

※9
コーエー=株式会社光栄。1978年に設立されたゲームの開発・販売を行う会社。2010年にテクモ株式会社と合併。

岩田

その当時のコーエーさんというと、
まだ『無双』シリーズが出る前ですよね。

鯉沼

はい。

岩田

代表的なゲームは『信長の野望』(※10)で・・・。

鯉沼

それに『三國志』(※11)とか、
競馬ゲームの『ウイニングポスト』(※12)などがあった時代です。
で、「どうしてコーエーに入ったの?」と
よく聞かれるんですけど、
実は高校時代に入っていた天文部の部室に、
パソコンと『三國志』のソフトが置いてあったんです。

※10
『信長の野望』=1983年に光栄(のちのコーエー)が発売した、歴史シミュレーションゲーム。
※11
『三國志』=1985年に光栄(のちのコーエー)が発売した、歴史シミュレーションゲーム。
※12
『ウイニングポスト』=1993年に光栄(のちのコーエー)が発売した、競馬シミュレーションゲーム。

岩田

どうして天文部の部室に、
『三國志』のソフトが置いてあったんですか?

鯉沼

もともと天体のシミュレーションをするために
パソコンが部室にあったんですけど、
そこに先輩が『三國志』を持ち込みまして。

岩田

それで遊んでいたんですね(笑)。

鯉沼

はい(笑)。
それでコーエーという会社があることを知ったんです。
あと、わたしが高校生の頃は
パソコンを遊ばせてくれる駄菓子屋さんがありまして。

岩田

え? 駄菓子屋さんでパソコンをですか?

鯉沼

はい(笑)。
確か30分、50円か100円で。

岩田

ああ、パソコンの時間貸しをさせてくれたんですね。

鯉沼

そうなんです(笑)。

岩田

駄菓子屋さんがファミコンの時間貸しをしていたのは、
わたしも見たことがありますけど・・・。

鯉沼

パソコンの時間貸しもあったんです。

岩田

へえ~。

鯉沼

そこで初めて、『信長の野望』を触ったんです。
なので、わたしにとってコーエーは・・・。

岩田

高校生の頃からなじみ深い会社だったんですね。

鯉沼

はい。そういうことがあって、いまの会社に決めました。

岩田

なるほど。
それにしても人生って不思議なものですね。
やっぱり、いまにつながる、不思議なご縁がありますからね。

鯉沼

そう思いますね。