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小学生の時、両親が共働きで所謂「鍵っ子」だった俺。
風呂を洗っておいたり、玄関の掃除をしなくてはいけなかったので友人達とは中々遊べなかった。
ある日親父が仕事から帰ってきた時にFC本体と「ドラクエ3」を買ってきてくれた。
仕事から帰ってきた両親と夕飯を食った後3人でそれをやるのが俺の最大の楽しみだった。
中学生に上がって反抗期を迎えた俺は毎日両親とケンカばかりしていた。
ある日いつもの様に両親とケンカになり消防の時買ってもらったFCと唯一のカセット「ドラクエ3」を投げつけた。
その時はなんとも思わなかった・・・・。
中学卒業後、俺は高校にいかずペンキ屋に就職する事になった。両親は中学卒業前に既に離婚していた。
俺はどちらにもついて行かず父方の祖母の家に祖母と二人で住む事になった。
現在、祖母の家に住み始めて7年目。
先日祖母に頼まれて物置を整理していた。
奥の方にボロボロになったダンボールを見つけたので中を開けてみた。
そこにあった物は粉々になったFC本体とカセットの中身が剥き出しの「ドラクエ3」。
不器用に接着剤で修理しようとした痕がみられるが修復出来なかったらしい、・・・俺達家族の絆と一緒だ。
おいおい、プレステがある時代に「ドラクエ3」かよ、と思った。
だが心とは裏腹に「ドラクエ3」がやりたくなりニューFCを買ってきてTVと繋げ電源を入れてみた。
懐かしい。勇者の名は俺の名前、戦士に親父、僧侶にはお袋の名前。3人パーティでプレーしてたのだ。
忘れ様としていたあの頃の思い出が頭を駆け巡り涙が止まらなくなった。
3人パーティはイシスの町で止まっていた。クリアは当時の俺には難しくて出来なかったのだ。
父母とはあれから会っていない。今どこで何をしているのかも知らない。
そして俺は今ドラクエ3をやっている。なんとしてもクリアしたくなったのだ。
もちろん4人目は入れない。3人パーティでだ |
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タイトル:ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会 |
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ある日、一本の電話が私の携帯にありました。
それは、幼いころからの親友の死を告げるものでした。
その親友との思い出話をさせていただきたいと思います。
彼とは小学生4年生の時に知り合い、家も近かったため、
すぐに親しくなりました。
いつの頃かはわすれてしまいましたが、とある夏休み、
2、3日に一度は彼の家に友人数名で押しかけ、
一日中ゲームをしてました。
そのゲームに登場する脇役キャラである「競争の火蓋を落とす人」、
要するに、スタートの合図をする人が、彼ととてもよく似ていたのです。
似ていることに気づいたときには、みんなで大笑いしたことを
今でも鮮明に覚えています。
彼の死を告げられ、無性にこのゲームがやりたくなり、
押入れの奥からすっかり埃まみれになったファミコンの箱を
取り出し、さらに奥から1本のゲームを探し出しました。
当時の情景が脳裏に浮かび、「スタートの合図をする人」を
見たとき、私は泣きながら笑っていました。
彼との思い出のひとつを作ってくれたこの作品に感謝し、
この場をお借りし感謝の言葉を申し上げたいと思います。
「熱血行進曲、ありがとう!」
友人の間では「熱血行進曲」と呼んでいたので
あえてこう呼ばせていただきました。 |
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最初にやったのは友達の家でした。アイテムがあったり亀の甲羅を持てたり空を飛べたり…、とにかく面白かったですね。で、すご〜く欲しくて欲しくて親にねだりました。そしたら、親は「サンタに連絡しとく」って。この時は小学3年生だったんですけどサンタを信じてて。クリスマス当日、夜中に親が寝ている私の枕もとに「マリオ3」を置いていったんですけどその物音と「マリオ3」を楽しみにしすぎていた興奮とで目が覚めてしまったんです。親は起きた私に気がつきませんでしたが、親がサンタだと知ったのはこの時でした。
ちなみに親が部屋を出てった後は、暗がりの中、説明書を読みながら早くやりたくて興奮で眠れませんでした。 |
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頭突きが強かったケルナグール。
友達とケルナグールごっこをして
前歯が折れました。
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いつも2コンが僕、1コンがW先輩。W先輩は、僕のチームのピッチャーがバテバテのヘロヘロになっても、(1コンにのみスタートボタンがあるのをいいことに)決してタイムをかけさせてはくれなかった。だから、僕のピッチャーは絶対、先発完投。どんなに疲れても、くたびれても、交代は許されない。根性のみで投げきるのだ。W先輩からは、不屈の魂、という貴重なものを教わった気がする。
ちなみに試合はたいていW先輩の負け。 |
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ファミコン。それは、僕ら海外に生活する者にとってとても特別なもの。
そして、忘れられないあの事件。
1990年、僕は父の仕事の関係でフィリピンに住んでいました。
今の子供達もそうなのかはわかりませんが、当時の僕らは
RPGであろうとも、一つの画面の前にみんなで集まり協力して
冒険の世界を楽しんだものです。
それはもしかしたら、海外に暮らすという特殊な環境があったせいかもしれません。
人気の新作ソフトをもっていようものなら、近所の友達のみならず
離れた友達も車で乗り付け、同じドキドキを共有していました。
その日は、友達3人で学校帰りに僕の家に集まっていました。
目的は、僕が祖母に頼み込み誕生日にようやく買って貰えた
ファイナルファンタジー3を楽しむためです。
多少の情報はあったものの、その美麗なグラフィックと音楽に
僕はなにものにも代え難い感動と興奮を覚えました。
両親、祖父母に感謝。本当に嬉しくて大事に大事にしていました。
こういうモノを、宝物と呼ぶのでしょうか。
1990年7月16日。
画面の世界に夢中になる僕らに
大きな揺れが僕らを襲いました。
はじめて体験する大きな地震に、一瞬の焦りを見せる僕ら。
一斉に立ち上がり、誰かのかけ声と共に外へと逃げだそうと
一歩踏み出したその時、
僕には、どうしてもこの宝物を置いては行けません。
かなり焦っているこんな時でもこれだけは忘れません。
「電源を切るときはリセットを押しながらOFF!」
そして僕は、その宝物に描かれた天野喜幸のイラストのように
颯爽と家の外に駆け出しました。
庭へ出てしばらく、不安の中にあった僕らも
揺れの収まりとともに安堵の表情と共に、不思議な興奮を覚えます。
「なにこれ!すげえ、こえええ!」
と、そんな驚嘆の言葉に始まり、堰を切ったように色々な言葉が
口から飛び出てきます。
僕の手の中にはファイナルファンタジー。
このとき、僕は大切なモノを守った、勇者のような誇らしい気持ちになりました。
今でも誇らしげにこんな話をしてしまう、自分がまだいます。
小学6年生の暑い夏の思い出。
最後に、この地震で亡くなった多くの方々に追悼の意を表します。
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世界でいちばん売れたソフトで、きっと他にもたくさんの人が挙げるだろうけど、マリオなんです。 今、ファミコンミニをプレイして思い出されるのは、マリオとの思い出というよりもそのときの情景。昔あった2代前のテレビ、畳のにおい、買ったばかりのファミコンのにおい、にじむ汗、ひぐらしの声、振り子時計、夕焼け、小二の夏。ファミコンができる土曜日が楽しみだったっけ。今の小学生もポケモンやりたさに土曜日を楽しみにしていたりするのだろうか。 昔を思い出し懐かしむなんてお互い歳をとったなあ、と。僕もマリオも。ファミコンも。 もちろん今でもマリオ万歳!です。 |
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悲しいことに、このゲームを買ったきっかけは全く覚えていない。
でも、人にはなぜか印象に残っているものが1つくらいはあるはずだと思う。
例えばそれは昔見たテレビの1シーンだったり、耳にした音楽の1フレーズだったり。
私にはたまたまそれが「迷宮組曲」だっただけで、自分でも不思議には感じない。
はっきり申し上げて、当時小学生の私にはクリアは果てしなく難しく、やっとの思いでクリアをしても
あまり感動がなかったような記憶がある。
そんな私も社会人になって、一人暮らしを始めた。
久しぶりに実家に帰ったとき、押入にしまってあった段ボールを目にした。
箱の中には当時、熱中したはずのファミコンとソフトが数本。
かなりの数があったように記憶していたが、母は「親戚の○○ちゃんにあげちゃったのよ」と教えてくれた。
それでも懐かしさに駆られてテレビにつなげてみた。
断線などで何度も壊れ、その度に父親が半田ゴテを持ち出して修理した本体は、電源を入れてもブランクを感じさせない。
とりあえずと手に取ったソフトは「迷宮組曲」だった。
「あぁ、連射測定モードとかあったな」とか思いながらゲームを始めると
なかなか辞めるきっかけをつかめないまま、相当の時間が流れていた。
母親の「ごはんの支度ができたわよ」という言葉で、私は渋々とコントローラーを置き、食卓へと歩を進める。
母の言葉、ゲームに熱中する私、何年経っても変わらないのは不思議でも何でもない。
ただ1つ変わったこと。
それは私が、この「迷宮組曲」というソフトの面白さが
理解できるくらいに大きくなったことだけだろう。
帰る日、私はファミコンを持って帰らなかった。
ファミコンをする私、それを呼ぶ母、そして、あの日と変わらないソフト。
それら全てが揃っていなければ、何だか寂しい気がしたからだ。 |
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忘れもしない1985年10月27日。よく晴れた日曜日でした。
この日、おじいちゃんにファミコンを買ってもらいました。
ぼくは当時小学2年生でした。
本体と一緒に買ってもらったソフトがこの「F1レース」です。
手が震えるほど緊張して電源を入れました。
説明書もロクに読んでいなかったので、スタート地点から微動だにできずゲームオーバーになってしまったのが記念すべき初プレイでした。
説明書を読んで、車が動かせたときには、ただそれだけで感動しました。
カーブに差し掛かると自分の体も一緒に傾いていたことは、今となっては微笑ましい思い出です。
ゲーム中はBGMもない、誰かと競うわけでもない、制限時間内にコースを回ることが目標のシンプルなゲーム。
だけど、ファミコンの世界の入り口になったこのゲームはぼくにのって強烈なインパクトを与えてくれました。
今でもこのゲームのタイトル画面のBGMを聞くと、ファミコンが入っていた箱を開けたときの緊張と興奮が、新しいプラスチックと発泡スチロールの匂いとともによみがえります。
そして、もう、二度と会えないおじいちゃんとの思い出も。
おじいちゃん、茶の間のテレビをファミコンで占領してごめんね。
おじいちゃんに買ってもらったカセットたちは今でもぼくの「宝物」です。
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